和紙の教え


   一

 『紙漉重宝記』の絵語りの終わりに、忘れ難い一図が差し入れてある。一

枚の紙が風にひらひらと遥かに飛んで行くのを、人が追いかけて拾おうとす

る図である。貴い紙を一枚でもおろそかにしてはすまないという意を込めた

のである。絵にとり立てて美しさはないが、この一図を忘れずに加えたその

心には美しさが濃い。物体ないという気持ちが溢れているからである。どの

本であったか、紙に就いて神明を畏るべしという意味の句が添えてあった。

清浄な紙の性質に就いて、貴い訓しである。
                    カツ
 石州の黄ばんだ半紙を胸に描くとしよう。嘗てはありふれた質素な品であっ

たが、私がわけても好むものの一種である。工房を訪ねると、時としてはい

とも貧しい箱舟や簀で、農事の片手間に、もの静に漉いている。薄暗い室や

簡素な道具類や、うたた遠い昔の姿そのままを想わしめる。細々とした手仕

事に過ぎなくはあるが、出来上がった紙を見ると、誠にりんとした所があっ

て、張りが強く、思わず指で撥いて、音を楽しむのを禁ずることが出来ない。
                     ハダエ
それのみではなく、やや厚みのものになると、肌の美しさが一入際立ってく

る。静かな起伏や、ゆるやかな渦紋さえその上に漂うではないか。思わず又

手を触れる快よさを抑えることが出来ない。色をと見れば、誰だとてその天

与の黄ばんだ調に、見とれない者はないであろう。楮の甘皮が人に代わって

染めてくれたのである。私達は知らず識らずに、耳に手に眼にこの和紙を讃

えているのである。

 優れた紙になると、それ自身で既に美しさに溢れる。どこか犯し難い気品
                               ヒトキレ
が見える。愚かに用いてはすまない。たとえ使い古した半紙や巻紙の一切で

も、何か棄てるに忍びないではないか。紙縒にでもすれば又甦って来るから

である。昔の人はそれで布を織った。細かい乱れ絣が入った着物などを見る

と、手習の跡かと思われ、一入情愛をそそる。

 支那に「鶏肋」という言葉がある。後漢書の揚修伝に出たという。意味は

鶏の肋骨は棄ててもいいようなものの、さて棄てるには惜しいというのであ

る。だが私だったら「片楮」とでも云い直したいところである。一片の楮紙

でも無駄にするには忍びない。何かそこに紙恩と呼んでよいものを感じない

わけにゆかぬ。

 なぜ和紙がそんなにも貴いのか。数々の理由を挙げ得るであろうが、何と

しても紙として無類の美しさがあるからである。そうしてその美しさが、材

質の正しさから来ているからである。誠に柔剛の二面を兼ね備えた紙として、

是ほどのものは天下にない。それが純和紙である限り、美しくないものは一
      カミ               シモ
枚だにない。上鳥の子、壇紙から、仙貨、杉原、下天具帖の薄きに至るまで、

何れも和紙の栄誉を語らないものとてはない。
                      ヘイハク
 古語に「にぎて」という言葉がある。神に献る幣帛の義である。「にぎ」
  ニギ         タエ       ナゴヤ カジヌノ
は「和」であり、「て」は「栲」即ち梶で、「和かな梶布」のことである。
             ランショウ
布帛であるが、ここに梶紙の濫觴があったと思える。幣帛即ち「みてぐら」

に白紙を用い始めてから既に久しい。紙は今も祭事になくてはならない品物

である。その和らぎと浄らかさとは神の御霊に相応しいのである。「紙」と

「神」との二語が通ずることを注意した者があるが、付会の説であるとして

も、連想としては強ち不自然なことではない。自から浄らかな紙は、神の心

を示す姿とも云えるからである。紙は私達に清浄の教えを垂れ滋潤の徳を示

してくれる。


   二

 何が和紙をかくは健全なものにさせるのであろうか。私達はここでも自然

が何よりの母であり、伝統が何よりの父であることを想わないわけにゆかぬ。

あの王妃のように気高い「雁皮」も、武士のように強壮な「楮」も、官女の

ように典雅な「三椏」も、自然からの賜物でないものはない。この恩寵に浴

めばこそ、和紙に強さや美しさや温かさが出るのである。何もこれ等の素材
          トロロアオイ
ばかりではない。あの黄蜀葵の神秘な働きや、漉水の性質や、気温の上下だ

とて、どんなに土地の紙を固有なものにさせていることか。雪に冷たい流れ

の水や干板にさす日の光が、どんなに紙を紙にすることか。これを人が作る

とはいうが、自然の恵みが作らせるのだという方がもっと正しい。その恩を

感謝して受ける者をこそ、よき作り手とは呼ぶのである。和紙を見つめる者

は、自然の深さを見つめているのである。よい紙を見る毎に、自然の意志に

任せきった仕事が、どんなに確かな質を得るかに至るかを教わる。

 だがそれ等の資材を紙に甦えらすものは、いつに歴史であり伝統である。

紙がここまで達するには、長い歳月が来ては去った。そうして吾々の祖先は

如何に漉くべきかの智慧を漸次に会得するに至った。かくして多くの人達の

経験は更に智慧を鍛え、智慧は更に経験を深めた。そうしてこれが伝統とし

て祖先から子孫へと受け継がれて行った。簡単に見える操作だとて、一日に

して成ったものではない。伝統にはどんなに深い叡智が含まれているであろ

う。そうして各地に栄えた和紙には、各々にまぎれもない性情が読める。美

濃の「書院」、土佐の「仙貨」、武蔵の「細川」、常陸の「程村」、似てい

るようで似てはいない。凡ては土地の誇りなのである。よき紙は自然への帰

依と祖先への信頼とに活きる。この敬念がなかったら、和紙は和紙たるの美

を忽ちに失うであろう。私達は和紙から、まざまざと自然と歴史との恩寵に

就いて、数々の真理を教わるのである。

 わけても和紙には日本の姿が見える。清くて温かくて強くて、而も味わい

に溢れる風情が見える。もとより和紙と云っても一様ではない。だがどんな

和紙も、まじり気のないものである限りは、どこまでも日本の姿である。見

渡すともこんな紙は周囲にない。朝鮮の紙は身近くはあるが、誰も見間違え

はしないであろう。それほど和紙は「和紙」と呼んでよいほどに固有な紙だ

と云える。而も昔と今と、それが正系のものである限り際立った相違はない。

或人は進歩がないと詰るかも知れぬが、一方にそれだけ昔の良さを崩さない

のだとも云えよう。驚くことには日本人の手は、千年余りも固有の紙を漉き

続けてきたのである。私達はこの独自な固有の至宝を、凡ての国民が熱愛す

ることを望んで止まない。これも日本的な生活を形作ってくれる一つの確か

な要素なのである。この反省さえあれば、漸く傾きかけてきた手漉紙の崩壊

を未然に防ぐことも出来よう。どんなに洋紙を沢山使うともよい。併しどん

な洋紙よりも、和紙の方が、もっと美しくて日本的なものだということを忘

れてはならない。「故国を愛せよ」と、そう和紙は教える。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『日本読書新聞』一周年記念号 昭和17年】
 (出典:新装・柳宗悦選集第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)

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